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武蔵野航海記

武蔵野航海記

明恵(みょうえ)上人

支配者が交代するには、単に新勢力が経済力や軍事力で勝っているだけでは十分でなく正統性の主張という理論武装が必要です。

旧勢力からの正統性の主張に対して、新勢力は別の根拠(例えば神の意思、人民の権利)に基づく正統性を主張しることになります。

そして双方の主張がエスカレートして、最後に武力衝突が起きることになります。

ところが、京都の朝廷側は自己の正統性を強力に主張できなかったのです。

その結果、相反する正統性の主張の衝突・エスカレーションが起きなかったのです。

御家人側は経済的にそれほど大きな不満があったわけでもないので、朝廷と幕府の並立という極めて曖昧な状態で安定してしまったわけです。

そして、この非論理的な体制が後の世にも大きな影響を与えていくことになりました。

律令の思想の基礎はチャイナのもので、当時の日本の社会道徳とはまったく別のものでした。

律令が予想したのと全く違う反応が社会から返ってきたので、日本政府は国家組織を大幅に変更しなければならなくなりました。

チャイナでは儒教が表面上であれ絶対的な権威で、律令制度はそのための道具です。従って変更することも簡単に出来ます。

しかし、日本には儒教という権威がないので、律令の規定そのものが権威となってしまいました。

これは戦後の「議会制民主主義」が権威となったのと全く同じです。

ヨーロッパでは絶対的な権威を持っているのはキリスト教であって、議会制民主主義という道具ではありません。

当時の日本では、律令制度そのものが「権威」なので変更が出来なかったのです。

そこで律令を無視するしか方法がなかったのです。

その結果、組織的には律令に規定されていない令外の官(りょうげのかん)で政治が行われました。

該当する律令の法令がないので、その令外の官が発する行政命令が慣習法を形成していきました。

平安時代末には、律令に規定のない役所が律令とは別の慣習法によって運営されるという事態になってしまいました。

その結果、様々な政治的行為が律令に照らして合法か違法かといういわゆるリーガルマインド(物事を法律的・合理的に考える能力)を朝廷自身が持たなくなってしまったのです。

幕府や守護・地頭などという組織は律令にないから認められないと主張すべき朝廷自身が、律令に依拠していませんでした。

治安を維持しているのは令外の官である検非違使で、大臣以下が得ている俸給は知行国主としての収入という「ヤミ給与」になっているといった状況だったのです。

朝廷は、軍事力がなく、律令という合法的な制度に依拠せず、リーガルマインドもなかったのです。

結局朝廷に残っていたのは、あらゆる舶来の文化を独占し、神から日本の統治を委託されたという神話に支えられた精神的な力だけでした。

幕府は朝廷の主張する精神的な力を認め、朝廷は自ら放棄してしまっていた支配者としての実権を幕府に認めることで共存したのです。

幕府は御家人の権利を守るのが本来の勤めですから、御家人の所領の法的保障を主な目的とした法典を編纂し、裁判制度を充実しました。

貞永式目と通称されている御成敗式目を制定したのは、執権北条泰時(やすとき)でした。

この泰時は、明恵上人の弟子でその思想の影響を大きく受けているのです。

明恵(みょうえ)上人は華厳宗のお坊さんで、京都の栂尾高山寺の創設者です。

1173年生まれですから親鸞聖人と同い年です。

生まれて七年後に頼朝が伊豆で旗揚げしていますから鎌倉時代初めの人で、紀州の湯浅の地頭の家に生まれています。

父は平重国、母は湯浅宗重の娘でなかなかの名門の生まれです。

1180年上人8歳(数え年)の時母が病死し、八ヵ月後父が千葉で源氏と戦って討ち死してしまいました。

生まれた時から母が上人を僧侶にしようと考えていまして、上人自身もそのつもりでいました。

ハンサムだった様で四歳の時、父親が冗談に「お前は男前だから侍にして天皇に仕えさせよう」といいました。

ところが上人は、男前な為に僧侶になれないなら片輪者であれば良いだろうと考えて、縁側から転げ落ちました。

しかしなんともないので、今度は焼け火箸を顔に当てようとして恐ろしくなり泣き叫びました。恐ろしくデリケートな少年だったのです。

翌年9歳の時京都高尾の神護寺に行きました。

出家したのは十六歳の時だったので、このときは勉学のためだったのでしょう。
叔父の上覚上人が、神護寺の住職であるあの有名な文覚上人の弟子だったからです。

朝廷は、軍事力がなく、律令という合法的な制度に依拠せず、リーガルマインドもなかったのです。

結局朝廷に残っていたのは、あらゆる舶来の文化を独占し、神から日本の統治を委託されたという神話に支えられた精神的な力だけでした。

幕府は朝廷の主張する精神的な力を認め、朝廷は自ら放棄してしまっていた支配者としての実権を幕府に認めることで共存したのです。

幕府は御家人の権利を守るのが本来の勤めですから、御家人の所領の法的保障を主な目的とした法典を編纂し、裁判制度を充実しました。

貞永式目と通称されている御成敗式目を制定したのは、執権北条泰時(やすとき)でした。

この泰時は、明恵上人の弟子でその思想の影響を大きく受けているのです。

明恵(みょうえ)上人は華厳宗のお坊さんで、京都の栂尾高山寺の創設者です。

1173年生まれですから親鸞聖人と同い年です。

生まれて七年後に頼朝が伊豆で旗揚げしていますから鎌倉時代初めの人で、紀州の湯浅の地頭の家に生まれています。

父は平重国、母は湯浅宗重の娘でなかなかの名門の生まれです。

1180年上人8歳(数え年)の時母が病死し、八ヵ月後父が千葉で源氏と戦って討ち死してしまいました。

生まれた時から母が上人を僧侶にしようと考えていまして、上人自身もそのつもりでいました。

ハンサムだった様で四歳の時、父親が冗談に「お前は男前だから侍にして天皇に仕えさせよう」といいました。

ところが上人は、男前な為に僧侶になれないなら片輪者であれば良いだろうと考えて、縁側から転げ落ちました。

しかしなんともないので、今度は焼け火箸を顔に当てようとして恐ろしくなり泣き叫びました。恐ろしくデリケートな少年だったのです。

翌年9歳の時京都高尾の神護寺に行きました。

出家したのは十六歳の時だったので、このときは勉学のためだったのでしょう。
叔父の上覚上人が、神護寺の住職であるあの有名な文覚上人の弟子だったからです。

明恵上人は現世での努力の必要を説いています。

「あるべきようは」に沿うように生きるべきだと説いているのです。

「僧は僧のあるべきやう。俗は俗のあるべきやう。帝王は帝王のあるべきやう。臣下は臣下のあるべきやうなり。このあるべきやうを背く故に一切悪しきなり」。

これは法然上人や親鸞聖人が努力をしないでただ後生を願うという態度に反論しているものです。

この「あるべきようは」とは自然の中での自分の位置を悟ることです。

自分の中にある仏性を感じることが出来れば、自然の中にある仏性と呼応することにより自分のいるべき場所が分ってくるのです。

「凡そ仏道修行には何の道具もいらない。松風に眠りをさまし、月を友として究めれば他の事は不要である」と説明しています。

このような心境になるのに一番邪魔なのが「欲」なのです。

したがって「無欲」に自然と向き合えば「あるべきようは」という正しい処しかたが可能になるという教えです。

明恵上人は仏教の教理には大して関心がなかったようで、ただ幼児が母親を恋い慕う様にお釈迦様を恋い慕っていたという感じです。

「我が天竺(インド)に生まれたら、何事もしないだろう。ただあちこちの遺跡を巡礼すれば如来を見たてまつるような心地がして、学問修行などしないと思う」。

明恵が信じたのは仏教ではなく、釈迦という美しい一人の人間だったのです。

あるとき上人が道を歩いていると路傍にらい病患者がいました。

らい病には人肉が効くというので自分の肉を与えようと考え、帰り道では刃物を持参しましたが、病人は既に死んでいました。

これは先に書いた十三歳の時、狼に食われて煩悩を解脱しようとしたのと同じ態度です。

彼は筋道だった仏教理論を思想として持っていなかったのです。

鎌倉幕府成立後の京都の貴族勢力と鎌倉の武士達の権力争いが1221年に起こった承久の乱です。

このとき鎌倉幕府の執権であった北条義時は次のように言いました。

「後鳥羽上皇の代になってから国は乱れ、万民が安穏に暮らせなくなっている。

わずかに関東地方だけが治まっている。もし上皇が天下を統一したら今以上に混乱するだろう。

天下の人々を救うには一命を捨てるのは本望である。関東方が勝てば別の天皇を立てればよい」。

そして京都に遠征軍を派遣しました。

天下万民の為という理由で戦いを正当化したわけです。

この時頼朝の未亡人で義時の母だった政子が御家人の前で名演説を行い上皇側との開戦に踏み切らせたことは有名です。

この幕府の京都遠征軍の司令官だったのが義時の息子の北条泰時です。

上皇方は鎧袖一触という感じで蹴散らされ後鳥羽上皇らは島流しにされました。

承久の乱後の処理のため、泰時は暫く京都に留まっていました。

明恵上人のいる栂尾は京都郊外で山深いので上皇側の落ち武者が上人の庇護を求めて逃げ込んできました。

上人が彼らを匿ったので、上人自身が泰時のところに引き立てられていきました。

泰時は驚いて上人を上座に座らせ無礼を謝りました。そしてこのときから上人と泰時の親交が始まりました。

泰時は上人に政治を行っていく上での心構えを教えられています。

「私心がなく道理にしたがって行動すれば、罪にはならないと思うが」と泰時は質問しました。

これに対して上人は次のように答えました。

「道理にそむいて行動する人は現世で滅びてしまうことが多い。

しかし道理のままに歩んでも、人それぞれの罪を逃れられない場合がある。

そこで仏法を信じその法理をわきまえた後で政治を行えば、自然に上手くいく」。

つまり道理よりも仏教の教えを先にマスターすべしというのです。

上人が言っている仏教の教えが「あるべきようは」であり、上人なりの仏教解釈です。

この「あるべきようは」を政治に当てはめると次のようになります。

「名医が病の原因を突き止めて薬を調合するように、国が乱れている時は乱れの原因へさかのぼる必要がある。

目前の賞罰を厳しくすると反発が起きるし、身内を優遇すると外の人から怨みを買う。

これはやぶ医者が病気の元を確かめずにやたらと薬を与えるようなものである。

乱世の原因はすべて人間の欲から出ている。

これを癒すには先ず自分の欲から捨ててかからねばならぬ。そうすれば天下は黙っていても治まるだろう」。

明恵上人は、社会を人間や動物と同じように自然の一部だとする思想を持っています。

社会は自然の一部ですから、それには「無欲」に対処するべきだと主張しているのです。

この考え方は義時が主張する「道理」(この場合は天下万民のためには上皇は倒さなくてはならないという考え方)とは次元が違う発想でかみ合っていません。

社会は自然の一部であり、社会を構成する朝廷や幕府も自然の一部であるからお互いに無欲に存在すべきだというわけです。

明恵上人のように社会が全体として生物と同じ様な自然の一部であるからそれ自体が善だとか悪だとかいうことはないとする考え方は、世界的に見れば非常に特異な思想です。

社会とは個々の人間が集まって作った機能的なものであり、それ自体が独立したものではないと考えるのが普通です。

チャイナでも一神教の国でもそうです。

したがって神とか天とかいう絶対的な価値観に反する場合には修正されるべきものです。

日本人が社会を自然の一部だと考えるのは、日本人が国家という大きな社会を自分達の思想に基づいて作った経験がないからです。

狭い村落程度の社会しかないところに、いきなり律令制度という自分達に馴染のないものが天から降ってくるように押し付けられたので、自然現象として受け入れるしかなかったからです。

これに対して泰時の父である北条義時の「後鳥羽上皇の政権は天下万民のために良くない」という思想は、政府を機能として捉えているわけで、社会全体を自然現象と捉える明恵上人とは発想がまるで違う思想です。

一般的に土着の思想が外来の思想と接触すると、土着の思想は外来の思想を取り込み一段階高度なものに再編されます。

ところが律令を媒介とした儒教の思想と対決して出来た日本の思想である「あるべきようは」は、そういう発展をしませんでした。

「儒教は日本人には合わない」とチャイナの体系的な世界観を否定しています。

しかし「これこそが日本人の世界観である」という具体的な世界観を提示しているわけではありません。

律令を日本に導入した当時、日本人には狭い仲間内のルールを超越した広い世界観がまだ出来ていなかった為だと言わざるを得ません。

日本の歴史がもっとゆっくり進んでいたら、日本人の世界観が醸成されたと思います。

しかし高度に発達した律令体系を急いで導入したためにこの芽が摘まれてしまったのです。

律令制度を導入しようとした時の日本は、一緒に働く仲間を同族と考える「氏」がたくさん散らばって存在していた社会でした。

近畿の有力氏族が全国に散らばる「氏」を代表していて、それらの有力者の連合体が倭王国でした。

まだ統一された国家という状態ではなく、それを説明する世界観も出来ていなかったのです。

律令体制が最終的に崩壊し鎌倉幕府ができた時は、儒教という良く分からない重しが取り払われて、日本人の社会が再び表面に浮かび上がってきたという状況でした。

日本では宇宙とは自然現象を意味しており、この自然に逆らわない状態を善としています。

超越した存在(神、天など)が作る価値観の体系である世界観にはなっていません。

一方、太古から共に働き「同じ釜の飯を食う」一族の関係を大事にしようという道徳はあります。

この「同じ釜の飯を食う」仲間の集団と、国家や宇宙といったもっと広い世界を結びつける考えが育たなかったのです。

広い価値観(世界観)の体系が無いので、これと個人の内心の道徳とを照合しようがないのです。

宇宙全体の秩序、社会の秩序、個人の道徳の三つが一致するのを理想としているのは日本だけではありません。

チャイナでも中近東・ヨーロッパでもこの三つの一致を理想の状態としていたことでは変わりありません。

ただチャイナや中近東・ヨーロッパでは、個人の道徳がそのまま社会の秩序・宇宙の秩序になるとは考えていません。

チャイナでは個人が正しいと感じたことが、礼楽に合致していることを要求しています。

礼楽とは、個人的な礼儀作法と社会制度を含んだ広い範囲のルールです。

親が死ねば長期間喪に服さなければならず、その間肉を食べてはいけないとか妻と交わらってはならないとかのルールがあるのです。

又、社会で行動するにはその社会のルール(友人や家族、主君に対する態度)を守らなければならなりません。

このように外見が礼楽に合致して初めて、その人の内心は宇宙の秩序と一致していると認められるのです。

日本のように「外見で人を判断してはいけない」という発想はありません。

中近東やヨーロッパなど一神教の国では、神が宇宙を作ったと考えられており、神が決めたことが正しいと考えられています。

人間の狭い考えで神の判断を批判するのは許しがたい行為です。

従って、個人的に正しいと思ったことでも神の意思に合致していなければ正しいことでありません。

泰時は明恵上人を非常に尊敬し、上人から大いに影響を受けました。

泰時が鎌倉に帰り執権となった後も二人は盛んに手紙のやり取りをしています。

この手紙のやり取りを見ると、権力者と高僧の形式的なものではなく個人的な感情で結ばれた師匠と弟子の関係であることがわかります。

鎌倉に帰り執権となった泰時は荘園を高山時に寄進しようとしますが、明恵上人は断ります。

所領などを僧侶が持ったら贅沢になって怠け者になるというのです。

そして二人の間で荘園を「受け取れ」「いらない」という意味の歌を何度かやりとりし、最後に泰時は荘園を寄進することをあきらめました。

このように明恵上人に私淑した泰時は、上人の思想で幕府の政治を行ったので上人の思想が日本に深く根付くことになりました。

承久の乱後、朝廷と幕府が並存したのも上人の「あるべきようは」が大きく影響しています。


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